マンハッタン計画とは|参加メンバーを紹介

マンハッタン計画とは|参加メンバーを紹介 物理

「マンハッタン計画って何? マンハッタン計画のメンバーを知りたい。 アインシュタインが原爆を作ったって本当? 物理学って何だか難しそうだな…」

こういった疑問に物理学修士&MBAの筆者が解説します。

結論

マンハッタン計画とは、第二次世界大戦中のアメリカで発足された原爆開発プロジェクトで、世界中の優秀な科学者たちが招集されました。詳細は本記事にて解説します。

本記事の内容

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マンハッタン計画とは

マンハッタン計画とは|参加メンバーを紹介

マンハッタン計画とは、第二次世界大戦中のアメリカで発足された原爆開発プロジェクトで、世界中の優秀な科学者たちが招集されました。
マンハッタン計画に招集された科学者たちの大半は、自分たちが作った原爆が同じ人間に対して使用されるとは思ってもいませんでした。彼らは、個人としては家族を大切にしていたり、ヒューマニストなので、開発した爆弾を日本に落とすんだと事前に伝えていたら、参加しない科学者も大勢いたでしょう。しかし、彼らは政治家や軍人に「あくまでも実験結果により敵国を怖がらせて、戦争を終結に導くためのものだ」と言われて、だまされ、間接的に何十万という人々を殺したわけなのです。

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マンハッタン計画のメンバー

マンハッタン計画のメンバーで特に有名な「1.ロバート・オッペンハイマー」、「2.デヴィット・ボーム」、「3.ジョン・フォイ・ノイマン」、「4.クラウス・フックス」、「5.アルバート・アインシュタイン」、「6.リチャード・ファインマン」をそれぞれ解説します。

1.ロバート・オッペンハイマ―

ロバート・オッペンハイマ―

マンハッタン計画が始まると、オッペンハイマーは38歳で原爆開発研究の新研究所所長に抜擢されます。
まず、オッペンハイマーは優秀で適切な人材を確保して、短期間で7部門、6,000人という大規模科学者集団を組織します。当時190cmで65kgともともとやせ型でしたが、このプロジェクトにより休まず働くき50kgにまでやせ細ります。
その後、1945年7月には人類初の核実験であるトリニティ実験が行われます。実験は成功し、オッペンハイマーは「今、われは死となれり。世間の破壊者となれり」と言いました。またオッペンハイマーは原爆が広島・長崎に落とされたあとの惨状を見て「物理学者は今こそ罪を作った。もはや二度とこの軛(くびき)から逃れることはできない」と罪悪感に苛まれたようです。
原子爆弾が戦争を終結させたと考えたアメリカ国民により、「原爆の父」と呼ばれオッペンハイマーは一躍国民的スターになりますが、その一方で二度と核兵器開発に関わろうとはせず、人類に核兵器が使われることを阻止しようと政治的にも尽力していました。その後、水素爆弾開発を主張するエドワード・テラーらに対し、オッペンハイマーは反対しました。しかし、オッペンハイマーに対して 「ソ連のスパイ」という嫌疑がかかり、聴聞委員会が開かれることになります。 元共産党員の彼女や水爆推進派のテラーらの証言から「有罪」の判決が下ったのです。

2.デヴィッド・ボーム

デヴィト・ボーム

デヴィッド・ボームは、マンハッタン計画に参加させられた悲劇の物理学者で、原爆と水爆の開発に携わったオッペンハイマーの弟子でもあります。
ボームは、大学時代に社会主義、共産主義の活動家でした。学生運動をしていたので、思想的に問題があるとされて当初は計画に参加できませんでしたが、ボームの物理論文には、マンハッタン計画にどうしても必要な成果が含まれていました。そのため、ボームは無理やり参加させられることになります。
そして、第二次世界大戦終結後に冷戦が始まると、アメリカでは「赤狩り」という共産主義者や自由主義者への弾圧がありました。ボームは、過去の学生運動のことを疑われて反アメリカ活動委員会に召致されます。日本でいえば国会召致のようなものです。
ここでボームは黙秘権を行使しました。その結果、1950年には逮捕されてしまいます。1951年には無罪放免になりますが、この事件が原因でプリンストン 大学の助教授の座を追われました。
ボームの才能を惜しんだアインシュタインが、助手としてプリンストン大学で雇えないかと大学に交渉しましたが、大学側は首を縦に振らずボームは失業します。彼は、やむをえずブラジルのサンパウロ大学に移りました。アメリカからブラジルに行くときにパスポートを没収され、事実上の国外追放状態でした。
彼はその後イスラエルに移り、結婚しました。そして、イギリスのブリストル大学に在籍して「アハラノフ= ボーム効果」という、画期的な量子論の業績をあげています。これひとつだけでもノーベル賞に匹敵するような業績ですが、政治的なレッテルも影響して、受賞はかないませんでした。
晩年のボームは、科学技術批判をしています。技術は平和的にも利用されるけれども破壊にも使われている。トラブルの原因は人間の思考にあると述べています。 人間が考えること、思考こそが元凶だというわけです。その証拠に、人間のように言葉を使って考えない動物は、殺りく兵器を作らない。ダライラマなど様々な人との対話を通じて、平和ということを考えていく中で、最後に到達したのが平和運動でした。

3.ジョン・フォイ・ノイマン

ジョン・フォイ・ノイマン

1940年、マンハッタン計画に招集されたノイマンは、コンピュータのミサイル軌道を正確に計算するため、コンピュータの開発を行いました。1945年、若い物理学者リチャード・ファインマンが非人道的兵器を開発する罪悪感に苛まれていることを聞き、「我々が今生きている世界に責任を持つことはない」と言いました。つまり、ノイマンの思想の根底には科学で実現可能なことは徹底的に突き詰めるべきという「科学優先主義」、目的のためならどんな非人道的兵器でも許されるという「非人道主義」、この世に普遍的な道徳や責任などないという一種の「虚無主義」があるのです。これこそ、ノイマンが「人間のフリをした悪魔」と言われるゆえんなのです。
その後、ノイマンは「爆縮型」原爆という、原爆の威力を最大にするために、上空で爆発させる兵器を設計した。空軍の原爆投下のリストとして、「皇居、横浜、新潟、京都、広島、小倉」があげられていましたが、ノイマンは日本人の戦意を完全に喪失させるため、「歴史的文化価値の高い京都へ投下すべきだ」と主張したが、陸軍長官に却下されました。 また第二次世界大戦後は「アメリカが優位に立ってるうちに先制核攻撃をして、冷たい戦争を一気に終わらせるべき」と進言しました。ノイマンはなぜそこまでソ連を憎悪するのでしょうか?
原爆製造が完了した後、ロスアラモス国立研究所では、原爆製造に関する特殊技術の発明に関して「発明開示書」と呼ばれる機密書類にリストアップしました。この書類を作成する人物に、主要分野に精通し発明の内容を精密に分析できるノイマンとフックスの2人が選ばれました。つまりノイマンとクラウス・フックスは多くの研究者と共に原爆を製造し、その過程で生じた数えきれないほどの発明の詳細を話し合って、共著で機密書類をまとめました。しかし、そのフックスはソ連のスパイでした。ノイマンは信じ難い裏切りの念をソ連に向けたとされているのです。

4.クラウス・フックス

クラウス・フックス

マンハッタン計画の中枢的存在であったにも関わらず、ソ連のスパイだったフックスは筋金入りの共産主義者でした。彼はスパイの報酬としてソ連から400ドルしか受け取っておらず、彼はそうすることが人類のために正しいという信念に基づいて、ソ連に情報を流していたのです。
フックス事件以前は、大量の原爆でソ連に先制攻撃を仕掛ければ、ソ連の指導者が戦争の勃発にさえ気づかないうちに「ソ連を石器時代に戻す」ことが可能とみなされていました。1950年には、ソ連の主要都市と軍事施設すべてを同時に無力化するために必要な原爆、292発を保有することができました。その矢先に、フックス事件が起きたのです。
その後「アメリカの奇襲攻撃は、生き延びたソ連人の強い結束で、第三次大戦が長期化するようになり、アメリカは勝ちきれない」と判断し、トルーマン大統領は「水素爆弾」の開発を科学者たちに命じました。「水素爆弾」とは「核融合エネルギー」、すなわち「小型の太陽」を創り出す爆弾で、これなら数発程度で、ソ連を無力化できます。当時原爆開発に積極的に関わった科学者たちも水素爆弾は「人類に対する邪道」、「すべての生命を消滅させてしまう」と批判的でした。

5.アルバート・アインシュタイン

アルバート・アインシュタイン

1933年、ヒトラーが首相に就くと、ドイツではユダヤ人の迫害が始まります。もちろんユダヤ人のアインシュタインも例外ではなく、彼の首には5万マルクの懸賞金がつきます。アメリカの大学からドイツに帰国しようとしていた途中、彼は身の危険を感じ、再度アメリカへ行き亡命します。1938年ドイツの科学者オットー・ハーンが原始の核分裂反応を発見。これは物質には巨大なエネルギーを秘めているというE=mc2で表されるアインシュタインの特殊相対性理論を証明するものでした。ただし、アインシュタインはマンハッタン計画に招集されたものの、エネルギーの取り出し方(原爆の作り方)にはノータッチでした。
これはヤバいと思ったハンガリー出身のユダヤ人科学者レオ・シラードは、ドイツよりも早く原爆を製造するよう、フランクリン・ルーズベルト大統領に手紙を書きました。その際に、シラードは影響力のあるアインシュタインにもサインを求めました。アインシュタインは原爆を実際に使用しないことを条件にサインをしました。しかし、原爆は投下され、責任を感じたアインシュタインは日本人に会うたびに謝罪をしました。

6.リチャード・ファインマン

リチャード・ファインマン

卒業後はプリンストン大学大学院に移ったファイマンは、第二次世界大戦時だったこともあり、マンハッタン計画が行われているロスアラモス研究所へ行きます。そこでは大学院生という下っ端の立場ながら、所長のオッペンハイマ―から一目を置かれる存在となります。

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